おもしろき こともなき世を おもしろく  すみなすものは “感動” なりけり

私立大学に通う息子さんが、オンライン講義を受講していなかったことを父親から責められ、逆上して包丁で刺し、その後、自らは刃物で自殺した、というものです。

奈良県で、今年の5月に発生した、何ともいたたまれない事件がありました。

事件は5月だったのですが、今月の11日に書類送検(本人は亡くなっている)されたということで、昨日のニュースで、このことを知りました。

自殺した息子さんは、遺書を残しており、そこには父親の教育方針に対する不満が書かれてあったとのこと。

本当に、ツラい事件です。

実は、ぼくも中学~高校時代、父を殺そうと思っていたことがあります。

ぼくはその頃、高校受験、大学受験のため、毎日毎日、受験勉強を自分に強いていました。

昭和40年生まれのぼくは、まさに「受験戦争」という言葉通り、他人を蹴落としてでも志望校合格を勝ち取る! その道から外れた者は、人生の落後者で、不幸な人生が待っている……そんな価値観の中で育ちました。

スパルタ式の学習塾で寝る間も惜しんで受験勉強。試験当日、高熱が出ていても根性で受験。志望校である、地元で一番の進学校には合格したものの、今度は大学受験に向けて、また他人を蹴落とす生活。

東京の大学に入れば、自由になれる……その一心で、また受験勉強をやり続けました。

その途中で、中学のころからずっと感じていた疑問は、どんどん大きくなっていきました。

こんな勉強、何の意味があるんだ?

得点だの偏差値だので、いったい何が判断できるんだ?

世の中には、偉大な発明家や芸術家がたくさんいるが、彼らの多くは、学校からドロップアウトした……既成価値にハメこまれることに抵抗し、自ら価値を創ってきた人たちじゃないか!

なんて青臭い、でも正論を、次第に強く抱くようになっていったのです。

そのことを父と語り合いたくて、話を持ち掛けても、

「そういう偉そうなことは、受かってから言え!」

「東大を批判するなら、東大に入ってから言え!」

みたいな、取りつく島のない言葉ばかりで、とてもじゃないけど「対話」になんかなりませんでした。

そのうち、「こいつに、ぼくの何が解る? 世界で最も子供のことを理解しないのは、親だ!」みたいな、これもまぁ、今思えば青臭いのですが、でも、否定しがたい感情がどんどん膨れ上がっていきました。

父は、アルコール依存の兆候もあったので、だいたいこういう話をするときは飲んでいて、ぼくも若かったから、何度もつかみ合いになりました。

殺意も、何度となくわきました。

父親と息子というものは、とてもぶつかる要素を孕んでいます。

父親は、価値観を変えようとせず、自らの正しさを押しつけ、息子の考えをただ「甘い」だの「未熟」だのという、実に「ザツ」なコトバで片づけようとしがちです。

ぼくも息子を持つようになり、一時期、まったく同じように息子に接していました。

ぼく自身も、「発達特性」が弱くないため、衝突すると、激情して、妻が110番しようとしたことも、一度や二度ではありませんでした。

父と、ぼくの時代と、大きく異なるのは、

「発達特性」という知識を、ぼくや妻が持てたことだと思っています。

ぼくが少年時代には、こんな概念は知らなかった。

「そうか、我が息子は、発達特性が強いんだ!」

そう気づいたとき、一気に問題は氷解したのです。

現代でも、まだ「発達特性」=障害=うちの子が障害なんかであるはずがない!

という奇妙なロジックで、かたくなに特性を認めない親が多いようです。

その根底には、まず「障害者」に対する偏見があることは否めないでしょう。だからこそ「障害なんか」みたいな言い方が成り立つのです。

それは、他者と比較することによってしか安心を得られないという、歪んだ価値観のなせる業です。

誰それよりも、自分の方がまし。

誰それよりも、自分の子供の方が上。

この価値観は、

誰それは偏差値50の大学だけど、自分の子は偏差値55の大学だから上。

みたいなことにつながっていくのは、至極当然です。

偏差値至上主義世界でずっと生きてきたぼくが今思うことは、

しょせん、自分のアタマとチカラでものを見極め、判断できない、あるいはそのための努力をするつもりもない人たちが、誰かが勝手に決めた偏差値という実に粗雑な価値基準を唯一の基準と勘違いしているにすぎない、ということです。

「●●ブランドだから、いい洋服」

「●●円の寿司だから、よい寿司」

「●●という社会的地位の人が言っているから、正しい」

そんなふうにものごとを判断している人は、結局その●●を自ら創ったわけでもなく、また創るための努力をするつもりもなく、それを疑うことはそれまでの怠惰な人生を認めることになるから絶対に避け、それを信じ続けるために子供にその価値観を押しつける……そんな構図が、簡単に想像できるのです。

そしてそのことを、いま息子たちも、見抜いてきているのです。

父親であるぼくにも、突きつけてきます。

それを「甘い」だの「未熟」だのと突っぱねることは、

かつてぼく自身が経験した理不尽を繰り返すことになるでしょう。

実は、子供たちが感じ取り、見抜いていることは、本質的に正しいことが多いように思います。

そして今は、その本質論を、曲げずに生きるための「道具」が、ぼくらの時代より、各段に増えているようにも思います。

IT技術だったり、サポート校や通信制学校だったり。

かつて、「道なんて、一本しかないんだ!」と言われ続けてきたウソが、

もう通用しなくなってきているのだと思います。

あの、いたたまれない事件は、これからも、どのご家庭でも、そう、僕の家庭だって、いつ起こってもおかしくはない。

それを避けるためには、親と子が、互いに一個の人間として、既成価値ではなく自分の目と頭で見つけ出した価値をたよりに、対話して道を創っていくしかない。

そんなふうに痛感する事件でした。

あと、「対話」は、ユーモアも交えてとにかく楽しく!

真剣な話ほど、楽しく。

そんなことを改めて思う昨今です。


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