eスポーツについて、いまさらここで、クドクドと説明する必要はないかもしれません。
なぜ、いまこのタイミングで、eスポーツのことを書こうと思ったかといいますと、長男が来年から通うことに決まって、中3の今から予備入学的にお世話になっている通信制高校に、eスポーツ部が部活として存在していまして、
そこに所属する生徒さんたちが、実にイキイキと活動内容を説明してくれたのがキッカケだったわけです。
ちょうどシンクロして、妻の知人の息子さんが、ずっと不登校で引きこもっていたのが、eスポーツと出会ってハマり、最近、スポンサーがつくところまで本格化してきた、という話も入ってきました。
eスポーツ部の生徒さんの中には、まさにこのスポンサーがついた「プロ」を目指している方もいたので、いよいよ関心が高まったのです。
「発達特性」をもった「スペシャル」たちにとって、このeスポーツは、ひとつの大きな可能性になるかもしれないと思いつつ、一方で、ちょっとした“違和感”も感じています。
そのあたりを、詳しく書いてみましょう。
■まず、簡単に整理を
最初「eスポーツ」という言葉を聞いたとき、恥ずかしながら、ちょっと古いけど「Wii」みたいな、体を動かすゲームのみを指すものだと考えていました。switchのリングフィットアドベンチャーとかね。

ちがうんですよね。
要するに、ゲームですよ。ぜんぜんゲームです。
長々と説明するより、動画でサクッといきましょう。
はい。ホント、ゲームです。
ただ、友達同士や、ネット上でこじんまり対戦して楽しむのではなく、
大規模な大会があり、そこに参加して猛者と対決して高レベルなバトルを繰り広げることで観客を魅了し、優勝者には多額の賞金がリアルに支払われるところが、特徴です。
賞金額は、「億」単位は珍しくなく、メジャーなプロスポーツにまったくヒケをとりません。
大会に優勝すると、賞金のほかに世界的な「名声」も手に入るのです。
優れたプレーヤーにはスポンサーもつき、これだけで、立派に食べていけます。
■「スポーツ」の語源は、「運動」ではない
語源までさかのぼると、スポーツ=身体的運動ではないことがわかります。
もともとはラテン語の「 deportare 」=憂いを持ち去るというもので、これが古フランス語の「 desporter 」=非日常的な気晴らし・楽しみ、という語になり、それが英語のsportになったといわれています(諸説はあり)。
つまり、白い歯と躍動する筋肉、太陽の下で爽やかに笑顔で運動……みたいなのは、スポーツのほんの一部ということです。
たしかに考えてみれば、モータースポーツは別に肉体で勝負を決するようなものじゃないですよね。
なので、語源的な意味を考えれば、モニターとコントローラーと暗い部屋でゲームをやり続ける行動も、「スポーツ」といえるわけです。
このあたりの定義もあってか、将来的にはeスポーツはオリンピック競技として登場するという動きもあります。
■「スペシャル」にとってのeスポーツの可能性
発達特性を強くもったスペシャルたちの生きづらさの最も大きな原因は、「選択肢」が閉ざされてしまうこと、のように思います。
人と同じように学校に行き、同じように勉強し、同じように全日制高校に進学し、同じようによい大学に入って、よい会社に就職する……それ以外は「転落」であり「規格外品」で、豊かでシアワセな人生はない。
そんな価値観の中にいることを強制されるとき、スペシャルたちは希望を失います。
「そんなもん、数ある選択肢のうちの単に一個じゃん」
と言ってやりたいのはやまやまだけど、じゃあその「他の選択肢」って何よ?
ってなると、答えに窮してしまう……。これが、スペシャルの親たちが陥るジレンマです。
そんな中で、「ひたすらゲームに浸り、ゲームが上達することが、そのままシゴトになる。しかも、サラリーマンより全然高い報酬を得ることもできる!」みたいなeスポーツという存在は、スペシャルたちにとって、非常に強力な選択肢となり得るでしょう。
事実、あるアンケートによれば、子供たちの「憧れの職業」の1位「Youtuber」についで第2位にランクアップしてきたのが「プロゲーマー」とのこと。この「プロゲーマー」には、eスポーツプレイヤーも含まれます。
この「子供たち」の中には、相当数の「スペシャル」たちが潜伏すると思われます。なにしろ、潜在的には10人に1人がADHD……なんて統計もあるぐらいですから。
ぼくは、おそらくこれまでもスペシャルたちは潜在的に存在してきたのだけれど、昭和的な社会通念や社会の仕組みの中で抑えつけられてきたのではないかと思っていますが、その抑圧が通用しなくなってきて、IT等のツールが急進化してきていることも追い風となって、スペシャルたちが芽を出し始めてきているのではないかと感じています。アスファルトを突き破って花が咲くように。
eスポーツが、巨大市場となってきたことは、その花たちが陽の目を浴び、伸び伸びと咲き誇るための後押しになるようにも思えます。
■ただ、違和感も
ただ、ちょっと違和感も持っています。
それは、動画の中で狂乱する観客たちと、その中で「競技」を繰り広げる人たちが、同じような「眼」をしている点です。
同じような「眼」を、オリンピックの場で見たことがあります。
かつて「アマチュアリズム」と「参加することに意義がある」という理想の下、クーベルタン男爵の提唱によって始まった近代オリンピックは、いつのまにか、ただひたすらに「勝敗」のみを貪る場に変容しつつあります。
その背景には、コマーシャリズムの道具として選手たちを利用する巨大資本の存在があることは否めません。
スポンサーのおかげで、優れたプレイヤーが育ち、その芸術的競技によって人々に感動を与えることはたしかなのですが、その一方で、唯物的な価値観でひたすら勝利=お金を求める選手が増え、また利用価値がなくなった選手を、スポンサーが簡単に使い捨てる……なんていうやりきれない構図が存在するのもたしかです。
スペシャルたちは、もともと非常に純度の高いココロを持っている分、毒に染まるのも早いという一面があります。あのeスポーツ会場や、そこでの優勝を目指し、世界的名声を目指して合宿する人たちからは、耐性のない純粋なスペシャルが見事に毒に犯されているような、どうにもいたたまれない臭いを感じてしまいました。
まぁそれは、ぼくの単なる主観ですが……、
いずれにせよ、eスポーツに取り組むスペシャルたちには、どうか「楽しむ」という、もともと彼らがゲームの世界に入ったときに大切にしていたはずの動機を忘れないでもらいたいな、と願うのです。
楽しむことを忘れ、犠牲にして勝利だけを目指すのではなく、
むしろ、コマーシャリズムにも企業の論理にも薄っぺらいマスコミズムにも制約されず支配されず、そんなものからはまったく自由な「楽しみながら生活できる」場として、eスポーツを軽妙に利用してやってほしいな、と願うのです。